合同労組について/労働学校実践講座

第8期労働学校実践講座(講義録)2008/12/27

合同労組について

東部ユニオン委員長 小泉義秀

はじめに

東部ユニオンの委員長の小泉です。私は今は王子製紙グループの王子板紙江戸川工場(江戸川区篠崎)の構内にある王子斎藤紙業の東京営業所で働いています。王子製紙の下請けの下請けの会社ということになります。最初からちょっと脱線しますが、11月1日~12月14日まで浦安市の郷土博物館で「おらんハマのゆくえ」浦安・黒い水事件から50年という企画展をやっていて、そこに行った千葉の青年労働者からもらったパンフに「漁民本州製紙を襲う 900人が警官隊と衝突」「漁民警官隊1600人が激突 工場に乱入し投石 8人逮捕 警官ら60人負傷」という見出しの新聞記事が出ていました。浦安漁民にとっては誇り高い闘いの歴史であり、日本で最初の環境法となった水質二法が制定されるきっかけとなった事件です。当時は木からチップを作り、そこから紙をつくる工程だったのでその汚水でノリもあさりも全部ダメになってしまったのです。この浦安の漁民が突入した当時の本州製紙江戸川工場が今の王子板紙江戸川工場です。
主に私がやっている仕事は古紙の備蓄ヤードで新聞の古紙のプレスしたものの入荷と出荷とその管理の仕事をしています。備蓄ヤードというのは新聞古紙を野積みして、それにシートをかけて保存しておいて、必要に応じて主に王子製紙苫小牧工場に送ります。苫小牧工場は新聞古紙を月に6万トンくらい使ってまた新聞用紙を作ります。古紙のプレスの積み込みや荷降ろしはフォークリフトクランプという古紙のプレスを挟む形の4・5トンのフォークリフトで行いますので、毎日それに乗って仕事をしていて、車に乗らないときはシートかけ作業をやっています。今年2月に私のこの職場で東部ユニオンOSS分会を立ち上げて職場では分会長をやっています。

OSSというのは王子斎藤紙業の頭文字です。会社で一般的に使っている呼び方です。9人で立ち上げて二人辞めたので今は7人の分会です。職場の労働者はパートの女性や職制を含めて40人程です。王子斎藤紙業の東京営業所の仕事は資材・仕入れ・引き取り・備蓄と4種類くらいの作業をやっていて、そのうち正社員の労働者は30人弱です。細かい作業の話は本題からそれるので省略します。当初過半数を組織しようとしたのですがうまく行かなくて9人で立ち上げました。非公然で分会大会をやったあとで、私に対する船橋の支店への配転攻撃があって、それを阻止することから闘いは始まりました。一応今定着化を勝ち取り7名の分会員の内、6名が11・2集会に参加する団結体として維持しています。私の職場の闘いについては「まとめ」で話します。

毎日のように派遣労働者の首切りが新聞で報道されています。関西合同労組大阪東部支部技能育成センター分会の仲間は11・13、11・27、12・19と三波のストライキを決行しました。派遣労働者300人の解雇通告に対する反撃のストライキです。11・2集会で提起された生きさせろゼネストの闘いが来春を待たず、直ちに開始されたのです。11・2集会の成功がこういう形のストライキとして爆発したのです。派遣労働者が分会結成後間髪を入れずに派遣先でストに入り、支援の仲間と共に構内に突入してデモを貫徹するという闘いは派遣法そのものを撤廃させる新しい地平を切り開いた闘いです。なまじ途半端な知識とか経験をもっているとできないような衝撃的闘いです。大恐慌・首切りが襲い掛かる中でこのような革命的な闘いがこれからの時代の闘いであり、これは森精機の派遣労働者・青年労働者が切り拓いたものです。資本主義の終わりが始まった中で私たちがこれから経験することは前人未踏の誰も経験していないようなことです。合同・一般労組の運動においても同じで、今から我々が新しい運動をつくる、新しい闘いに突入するということです。

動労千葉と共に11・2集会に結集した我々以外の既成合同労組は全て体制内であり、今はじまっている大恐慌・大失業の時代に通用はしません。森精機の闘いのような運動がこれからの新しい闘いです。その意味で合同・一般労組の運動はこれから新しく我々がつくりあげていくものです。私も皆さんと一緒に大恐慌・大首切りと対決する運動をつくりあげていこうという立場で、私の拙い経験と現在考えていることを話そうと思いここに立っています。私の話をたたき台にして一緒に討論して新たな実践に共に突入しましょう。それは違うと思うという意見があれば出してもらってどんどん討論しましょう。

今日私が実践編の講師として、「合同労組について」のテーマで話すことになったのは東部ユニオンの経験というよりも「全臨時労働者組合」という合同労組の運動をやっていた経験があるからだと思います。そこで今日は2時間半くらい時間があると思いますので、そのうちの5分の2を「全臨時労働者組合」の話。5分の1を『合同労組の研究』(沼田稲次郎)から学んだ合同労組運動の歴史や考え方みたいなのを話して、後の5分の2を江戸川ユニオンからはじまる現在のユニオン運動の総括と合同・一般労組の運動についての現在と未来という感じのテーマで話したいと思います。当初の方針は50分―50分―50分と均等に三分割して話す予定でしたが、何人かの人に講義録を読んでもらったところ、「第二部での形態論にこだわるな」とか「気持ちはわかるけど第二部をもっと短く」というアドバイスがありましたので、60分―30分―60分という風に三分割して、90分10分休憩―60分と二部構成で話をしたいと思います。

講座のテーマは「合同労組について」となっていますが、西部ユニオンをはじめとしてほとんどのユニオンは「地域一般合同労組」の範疇に入る労働組合ですので、結論はその運動のあり方の話になります。それは西部ユニオンや南部ユニオンや東部ユニオン、関西合同労組を含めて「合同労組」方式をとった「地域一般労働組合」だからです。「合同労組」とは何かということだけで言えば、全金とか全繊同盟、建交労なども全部合同労組です。だからそういう合同労組一般の話をしてもしょうがないわけで、「地域一般合同労組」とは何か、いかに闘われるべきかという点に絞り込んで話をしたいと思います。それは合同労組や一般労組の運動がどういうものかにかかわる問題ですので追って説明します。

第一部 「全臨時労働者組合」の経験

さて「全臨時労働者組合」というのは略称を「全臨労」と言って1969年に結成され、1986年以降なし崩し的に解体していった合同労組です。全臨労は新聞産業の臨時労働者を組織対象にした「産業別統一労働組合」ですので、「一般労組」ではありません。後で正確に話をしますが、いろいろな職種の労働者を産業・業種の別なく組織する労働組合を「一般労組」と言います。「統一労組」というのはいろいろ集まって「統一」したから統一労組というわけではなく意味があります。この点も後で説明します。全臨労は新聞産業に特化して組織対象を明確化した合同労組方式をとった労働組合だということです。私は19歳の春の1974年に加盟して、80年位からこの全臨労の委員長をやっていました。

全臨労は69年に結成されるのですが、どのように作られたかというと、それ以前から有臨労という当時有楽町にあった朝日新聞社の臨時労働者の労働組合とか新聞輸送の臨時労働者の組合が母体になってそれらを統合して、新聞産業の臨時労働者を組織する労働組合を作ろうということになり69年に全臨労が結成されました。「全臨時」という名称をつけたのは臨時労働者のナショナルセンターのようなものの結成を構想し、国鉄臨労、リクルート臨労、小学館臨労等々と分会を作り、日産季節工の組織化のためにオルグを派遣するなどのこともやりました。今的な言い方をすれば「全非正規労働者を無くせ」が全臨労の理念です。しかし上手くいかなくて、新聞産業に限定した組織化を目指すことになります。これらの臨時労働者は学生でない人もいましたが、学生アルバイトが多かったわけです。私が全臨労に加盟した74年時は有楽町の朝日は分会が5つあって500名位が組織されていました。

毎日新聞の発送アルバイトは40~50人いて、新聞輸送の毎日分会は20数名というところです。販売支部は新聞奨学生と呼ばれる大学生・専門学校生が主力です。販売支部は最盛期1000名程組織していて行政区ごとに分会を作っていました。江戸川分会とか文京分会とかと23区全部に分会があって文京分会はその中でまたブロックに分割しないと組織活動ができないくらい数がかなりいたわけです。私が加盟した74年の時は世田谷・文京・江戸川・北分会が残っているだけで数も百数十にまで減っていました。それでも朝日に500いたので事務所を維持して、中央執行委員会があってそれなりの合同労組でした。

全臨労は私が加盟した74年の5回大会で解放派の一派を除名して、分裂する事態になっていたので、通史のようなものを書く人も運動を継承するのも結構大変な事態になっていて議案書や文書類は散逸していて、また結成当時の中央執行員会のメンバーは運動から離れていたので、全臨労がどういう経過でつくられたか正確なところは今ひとつわからない点がありますが、総評オルグ2名が全臨労の最初の中央執行委員に名を連ねているので、総評オルグの力も借りながら結成したことは間違いありません。二人というのは設楽清嗣さんと渡辺勉という南部一般のその筋では有名なオルグです。しかし彼らがかかわったのは最初の時だけでその後は独自展開していきます。というよりも総評オルグが投げ出すか、追い出されるかのような形で運動が進みます。その過程の全臨労のイデオローグは「N」という今は東大の教授です。それに連なるサンディカリストのような人を中心にして、解放派をはじめとするあらゆる党派も入ってきて2000名の合同労組が出来上がるわけです。サンディカリストというのは「急進的労働組合主義」と訳され、サンディカはフランス語で労働組合のことです。党を否定して労働組合の直接行動で生産管理を行ったりして社会変革を行うというような感じの主張です。それをサンディカリズムと言います。そういうイデオローグを中心に、当時の全共闘運動を背景に、それと連動して形成されたのが全臨労です。だから全共闘運動の最盛期にあだ花的に形成されたともいえます。だから2000の組織があったのは1~2年くらいの一時的な出来事でしかありません。私は解放派一派を除名して分裂した以降に加盟したので、全臨労が段々組織を減らす下り坂の過程からかかわったことになります。

私がどういう経緯で全臨労の組合員になったかは、全臨労の組織化の方法・青年労働者・未組織労働者の組織化や合同・一般労組の組織化の核心にかかわる問題ですので最初にふれておきます。私は北海道帯広の高校を卒業して大学に入学し、新聞奨学生となって江戸川区篠崎にある毎日新聞の販売店に入りました。1973年の3月末のことです。そこは毎日と東京新聞とその関連の新聞を扱っている店で店主とその息子と新聞奨学生の大学生が二人いてあとは中学生や小学生を使っている販売店としては最小規模の店でした。73年の年末に新聞の配達途中、水穂興業という民間下請け清掃の会社でピケストを行っていました。この水穂興業のストライキは「清掃共闘」という民間清掃の組織化の過程でその議長の灘晃という人が解雇されて、その解雇撤回のためのピケストだったわけです。パッカー車を駐車場の入り口に人がやっと一人入れる位にジグザグに止めて、車のキーは組合が管理して隠してしまい、その前に当該とい支援の労働者がスクラムを組んで座り込む完璧なピケストです。この清掃共闘は後に「清掃労組」と改称して民間清掃の大半の労働者を組織するまでになります。この民間清掃の清掃労組も合同労組です。

合同労組は業種・産別に特化して組織対象を明確化するのが一般的です。私はそのピケストに興味深々だったのですが、横目で見ながらゆっくりピケの前を通るくらいで自転車から降りて声をかけるほどの勇気はありませんでした。ピケストの第二波の時に全臨労江戸川分会のメンバーが数人ピケの応援に来ていて、配達している私の後ろから追いかけてきて「ちょっとすいません。新聞奨学生の方ですか」と声をかけてきて、そこで少し話をして店の電話番号と、名前を教えて分かれたわけです。この時の一人は日大全共闘出身の人で、その当時は江戸川区松江の朝日新聞の販売店で専業をやっていて、全臨労販売支部江戸川分会の執行委員でした。その後販売店を辞め都の中央卸売り市場の職場に入り、都庁職の現業評議会事務局長を歴任した人です。11月集会には必ず来る人で、この労働学校にも鎌倉さんの講座にはスポットで来るような関係です。30数年つきあっていることになります。私を全臨労にオルグした人の一人です。

この路上オルグは全臨労が配達員を組織化する場合の基本で「たちんぼ」と言います。配達区域の路上で待ち伏せしていて配達途中の路上で声をかけてオルグするわけです。これは店主に見つかると組織化が難しいので非公然でオルグするには路上が一番だということでそういう方法をとるわけです。あと条件として水穂でピケをはって何波かにわたるストライキをやっていたということが労働者を組織化する条件にもなります。私のように興味深々で見ている人が必ずいるわけですから。動労千葉のストライキもそうです。ストライキが労働者の与える宣伝力と威力が一番の組織化の道なのだと思います。その時の全臨労の組合員は「後で連絡しますのでよろしく」と言っていましたが、3ヶ月何の連絡もなく忘れていた頃に電話がかかってきて「店舗代表者会議をやるから小岩の喫茶店まで出てきてくれ」というわけです。そこで篠崎から小岩まで新聞屋の自転車で行っていろいろな話になりました。3ヶ月放っておかれたのは私のところには大学生が私一人しかいなくなっていたため、組織化するのは困難だと考え後回しになっていたのです。

他にオルグできそうなのがいなくなり、「まあ一人しかいない販売店のやつでも話してみるか」という感じで電話が来たわけです。ともかくその日は喫茶店で3時間位話した後、近くの飲み屋で朝刊の配達時間の朝4時近くまで飲んで徹夜して新聞配達に出ました。居眠り運転しながら新聞を配達したので、自転車や足がどぶにはまったりしてたいへんでした。春休み期間だったからできたことです。そこではいきなりレーニンの『国家と革命』をどう読むかの議論になりました。労働条件だとか組合がどうのこうのではなくそういう話になったのは私が民青であることを明らかにしたのでそういう議論になったわけです。私は1年目の夏休みに2ヶ月かけて『資本論』の第1巻を抜粋ノートを作りながら読んでいました。新聞配達があるからどこにもいけないし、大学に入る当初の目的が『資本論』を読むことだったのでそれを貫徹したのです。他にもそれなりのマルクス-レーニンの著作は読んでいて、それなりの自信があって論争を挑んだわけですね。

しかし相手はかなり老練な労組活動家です。たちうちできないのは直ぐに理解して、組合員になって活動することを決意するわけです。最初の活動は『賃労働と資本』の学習会とフォークジャンボリーに参加しろということでした。『賃労働と資本』のチューターは『資本論』を読んでいるんだからできないわけないだろうということでわたしがやらされました。ガリ切りをしてレジュメをつくり、全臨労の人からもらった謄写版で印刷してやりました。フォークジャンボリーというのは江戸川の河原でギターを引いて焼肉をしてドンチャン騒ぎするだけのことでしたが販売店の休刊日を利用しての活動でした。それを前後して裁判闘争の傍聴が提起されました。「渋谷東京裁判闘争」といって東京新聞の販売店で賃下げや組合弾圧に抗して全臨労販売支部のそれなりの人数を動員して時限ストライキを行った闘いに対する刑事弾圧裁判です。

新聞の朝刊は朝7時まで3時間ストをやればかなりの効果があります。この時スト破りの動員をさせないために電話を押さえ、店主を監禁して、暴行したということで渋谷東京の当該と販売支部の指導部、全臨労の中央執行委員の計4名が逮捕され起訴された刑事事件です。被告の当該は大学を卒業していて中学校の教員になっている人もいて執行猶予以上の有罪になれば解雇になる攻防のかかった裁判でした。この裁判闘争は解放派と分離公判になっていて、解放派は我々の公判粉砕を叫んでいて私がはじめて参加することになる公判の前の公判でわが派の全臨労の委員長が鉄パイプで目をやられて失明する事件が起きていました。だから傍聴動員も腹に週刊誌を巻いたり、竹で作ったこてみたいなのを手足にはめて、晴れているのに傘をもって傍聴に行きました。レポ車を出して、隊列を組んでの傍聴です。全臨労全体の活動への最初の参加がそんな感じだったわけですが、そんなに違和感もなくわたしもレポをやらされてあだ名が「狐」と言って目が狐目だからそういうのが来たら教えろなんて言われれてレポに出たけど、そういうのはとうとう来なくて何事もなく終わったわけです。狐というのは今全労協東京一般労組の「全労働者組合」の委員長か書記長をやっている三田というやつのことです。彼らは「臨時」を外して「全労働者」に改称したということです。

先日『レーバーネット日本』を見たら、東京労組全労働者組合新聞輸送分会の倒産に抗議する集会の案内が出ていました。新聞輸送は全臨労の核の組合でした。しかし彼らが四者四団体派であることは間違いありません。解放派の全臨労は今そういう形で生き残り、片方の元全臨労委員長は今こうして話をしているというわけです。私は傍聴には欠かさず行って、1年後判決公判を迎えました。判決は4名の被告それぞれ罰金2万円の有罪判決ですが、スト破りの導入を許さないためにピケを張って電話させなかったこと、店主を監禁した件については正当なピケストの範疇であると認定され、一部の暴行について行き過ぎという判決でした。実際店主・西村を正座させ、新聞の梱包を膝に乗せて、頭からコップの水をかけたり位のことはやったようで、そういう件の暴行について罰金だったわけです。被告がそういうことをやったわけではなく被告は指導部だから逮捕されたということです。組合としてはストライキの正当性を認定させたということで、勝利判決と総括しました。検察側は控訴を断念して判決が確定したと記憶しています。

中学校教員の高橋さんはそのまま教員を続けることになりました。その時の主任弁護士は西垣内賢輔というテルアビブ銃乱射事件で逮捕・拷問を受けていた赤軍の岡本浩三の弁護のためにイスラエルに行って弁護活動をやったような弁護士で、全臨労の顧問弁護士でした。だから全臨労というのはそういう関係者も絡んだ組合だったわけです。西垣内弁護士と全臨労OBは今でも付き合いがあります。解放派・全臨労は我々の方を「N」一派と呼び、我々は彼らを除名した一派なので彼らの委員長大森の名前をとって「大森一派」とか、「○除派」とか「青」と言って区別しました。全臨労を僭称しているということで「僭称派」とも言いました。青臨労は官公労は水道、民間は全臨労を2枚看板にしていて、かなり力を入れていましたから我々は全臨労主流派を自認していましたが、政治的・労働運動的には厳しいポジションにいました。

ともかく渋谷東京の裁判でスト破りを許さないためのピケを認めさせ、ストライキの正しさを立証したことは大きな力になりました。自分のところでも必ずストライキをやってやろうと決意しました。実際私の販売店で組合員を動員してのピケストはやれませんでしたが、部分的なストライキはやりました。

新聞販売店の配達員の組織化は今では困難と思われていますが、当時一番組織化の展望があると考えられていたのが販売支部だったのです。販売店は都内に2000店舗ほどあり、学生を中心に3万人くらい働いていました。当時は7割が学生、2割が専業配達員、1割が小中学生という構成です。東京オリンピックのあった1964年を境に新聞の増頁化がはじまり、小中学生では対応できない中で新聞奨学生制度というものが制度化され、学生が新聞配達の主力となっていったのです。新聞はもともとは4面しかありませでした。社会面を3面記事というのは4面のうちの3面が社会面の記事だったからです。新聞奨学生制度とは大学の初年度の入学金・授業料が例えば30万、二年目からの授業料が毎年10万づつとして、4年間働き通したら学費はただにするという制度です。当時の私大文系の学費はそんなもんです。私のところは16万でしたから30万は高い方の初年度入学金・授業料です。その他に賃金・ボーナスも出て、海外旅行の特典もあるといううたい文句で地方から学生を労働力として集めていました。但し、途中でやめる場合はそれまで出した入学金・授業料を一括して返済しなければならないという制度です。

毎日・朝日は年数に応じて返済額が逓減する方法をとっていましたが、読売は雪だるま方式をとっていて3年6ヶ月で辞めるとすると、60万の金を一括返済しなければ辞められない仕組みになっていたのです。全臨労販売支部の学生臨時労働者の怒りはこの奨学生制度に向けられていて、いたるところで争議になっていました。争議になり、首になると販売店側は金の返済を求めなかったので、借金をチャラにするために争議化を目的とした闘いもありました。配達に出て、新聞を自転車ごと橋の上から川に投げ捨ててそのままトンズラするような逃散型争議もありました。足立は「人民連帯」という中国派が影響力を持っていて、彼らは全臨労をその党派の活動家要請のための機関くらいにしか考えていなかったので、直ぐ販売店で解雇されるような争議をやり、一定闘ったらやめてどこかへ送り込むという戦術を取っていました。文京分会は協会派の大拠点で、彼らに言わせると「全臨労は党の闘いより厳しい。だから全臨労の活動をやるためにまず党に入れなければならない」という論理で組織して、一定の活動家になったら各地の社会党協会派のオルグになるのが彼らの就職先でした。

ともかく結成直後の全臨労の販売店での闘いは全共闘の闘いをそのまま販売店に持ち込んだようなものだったので、販売店の側も全臨労の統一交渉権の要求を受け入れる段階に入っていました。統一交渉というのは販売店の都内の新聞販売店全部を包括する同業組合の会長と全臨労が団体交渉を行い、労働条件その他について決定していくというものです。ガスの配管工の組合がそういうものを実現していたので、全臨労もそれを真似て要求することになりました。同時の同業組合の会長は小岩読売の荒川來四郎という8つくらいの販売店を経営している大店主でした。この店は店員が夜逃げできないように鉄格子が窓の外に張られている店でした。交渉が実現して団体交渉が明日あるという前日に本社からストップがかかり統一交渉は破産しました。その後全臨労の組合員にレッドパージの嵐のような大弾圧がかけられていくわけです。

さて今日は全臨労についての話に終始するわけにはいきませんので、販売店の労働者の組織化の方法、その過程で不可避的に闘いぬかなければならない争議について絞り込んで話をします。先に私が路上でオルグされた話をしました。ピケを張っていた組合員のオルグされたのですから通常の「立ちんぼ」とは異なるのですが、販売店労働者のオルグは路上でつかまえるのです。アパートとか集合住宅などの前がやりやすいのですが、配達区域で待っていて声をかけて、少し話をして喫茶店での待ち合わせを決めてオルグします。ビラや「労働条件の実態調査書」というのを作って持っていって夕刊の時間帯だとその場で10分くらいは話を聞きだすことがあります。配達終了後直ぐに速攻で会う場合もありました。その後が重要なのですが、我々は必ず販売店の中に団結体をつくることを目指しました。一人オルグしてそこで資本と闘い、争議化するということは絶対にやりませんでした。わたしが3ヶ月放っておかれたのも一人組織化してもしょうがないなというのがあったからなのです。必ず店内で仲間を作り、多数派を形成して公然化して資本と闘うことを基本としていました。「地域一般合同労組」の運動においても同じです。誰も組織しない、あるいはできないで一人で資本と闘うあり方はすべきではないと思います。『蘇る労働組合』(中野洋著)にも次のように書いてあります。

「たった一人の労働者が、まず合同労組として集まるという形態がなぜできたのかと言えば、そういう資本や権力との緊張や弾圧があるからだ。しかし、ある意味では『安易さ』が出てきてしまう恐れもある。やはり労働組合というのは職場に依拠しなければならないし、職場の中で闘える労働組合の組織をつくっていかなければならない。あるいはそれが無理な場合でも、常にそれを追い求めることが重要だ。合同労組、ユニオンをつくっても、その地区でどこかの拠点的な職場にきちっとした組織をつくって闘っていくということを常に意識することが大切だ」(61~62頁)

職場で仲間をつくれないで、外から合同労組の仲間を動員して一人で資本と闘うようなやり方、争議を自己目的にするような戦術は、結局職場で孤立するだけです。仲間を組織してしかる後に資本と闘うのが基本です。但し解雇攻撃がきた場合は別です。解雇撤回のための争議に突入するのは当然のことです。しかしそこでも解雇撤回を自己目的化するのではなく、そこの販売店の組織化と結びつけた争議をやります。組織強化拡大のための争議と消耗戦のような争議もあるのです。争議はある種の戦争ですから戦争的に判断して闘うことがあるということです。

典型的争議の事例をを二つ紹介します。「滝野川東部朝日」という販売店の争議です。これは私が全臨労に加盟して、渋谷東京の裁判闘争に勝利した直後くらいにはじまる北分会の争議ですが、1年闘って全面勝利しました。「滝野川東部朝日」の販売店に私の前の委員長の丸山という組合員が全臨労の活動家であることを伏せて専業店員として入りました。彼は組合員を組織する工作のためにその店に就職したわけです。店主は彼を信頼して、番頭格の専業として期待をかけていましたが、丸山が全臨労の活動家であることがばれて解雇攻撃がかけられるかもしれないという段階に入ります。解雇理由が学籍がないことを理由にしそうだとの判断があり、彼は妹から20万の金を借りて日中学院に入ります。何故日中学院だったのかいまだに良くわかりませんが、ともかくそこまでして解雇攻撃を防ごうとしました。しかしそんな小手先の問題ではなかったので解雇が来ます。理由はどのようなものだったか忘れましたが、全臨労の活動家だから解雇されたのです。

解雇は文字通りのたたき出しでした。解雇通告後抗議のために店に行くと、ヤクザが2名導入されていて店の前に立ちはだかって我々を店に入れないようにするわけです。一人は工藤と言い、顔に刃物の刺し傷のあるやつでした。もう一人は大川といって法政のジャージ軍団みたいなやつです。大川は2~3日すると出てこなくなったのですが、後日大川は池袋のやくざ同士の出入りで死んだことがわかります。販売店の争議はすぐさまやくざとの闘いでもあり、販売店はそういう私兵によって争議を圧殺してきたのです。丸山は店の二階の自分の部屋に居住権を主張して居座ります。すると夜な夜な店の専業配達員の塚田というのを先頭に、酒を飲んで割ったビール瓶を持って部屋に入り込んできて脅しをかけるとか、丸山に手錠をかけてベッドに縛りつけ木刀で殴りつけるとか、ベッドに水をまいて寝かせないようにするとかあらん限りのことをやって丸山を追い出そうとします。最後は20名くらいのやくざとか専業とかが動員されて両手両足を持たれて路上に投げ出されます。荷物はトラックに積み込まれ農家をやっている長野の実家の庭先に捨てられました。

我々は毎日店前抗議行動と地域ビラで反撃し、夜は毎日闘争委員会です。争議直後は毎日・現地で闘争委員会というのが基本でした。闘争委員会は通常の分会や支部の会議ではなく、争議のための非常臨戦態勢をとった会議として設定されました。私は朝4時くらいにおきて朝刊を配達し、7時くらいに配達を終えると直ぐに王子に向かい、販売支部の仲間と30人くらいで抗議行動をやり、地域ビラをまいて夕方3時過ぎに店に戻り夕刊を配達してそれからまた王子に出かけて闘争委員会という生活でした。会議は「フリージア」と名づけられた全臨労OBの部屋でやられました。この人は都の清掃局の職員で、ある支部の支部長をやっていたことがあり、11月集会にも来る人です。彼は丸山に賃金の半分をカンパして自分は食パンとみかんを何の調理もしないで食べて生活していたような人です。そういう質素な生活をして丸山にカンパして闘いを支えるのです。ここでの会議は終電ぎりぎりまでやられたので、篠崎に戻ると0時を回っていました。それから3時間寝て配達をしてという超人的生活をしていました。

二十歳くらいだからできたということもあります。解雇通告直後1週間~10日くらいの集中した闘いを最初やりました。私の人生観が変わったのはこの争議からです。全臨労に人生をかけてもいいなと思ったのが丸山の闘い方とこの争議でした。丸山は自分が暴行を受けながらそれに屈しない姿を見せて、販売店の新聞奨学生を全部組織しました。5~6人ほどです。専門学校生が多かったですけど、久高さんという沖縄出身の女性の学生もしました。当初は組織化しても丸山と同じようにやられたらもたないと判断して非公然でいました。だから丸山が目の前で暴行されても我々が販売店に抗議に行っても関係ないそぶりをすることを方針化していました。しかし、自分たちも公然化して闘いたいということになり、我々もその決意と団結の中身がやくざを使った弾圧を行う新聞資本との闘いに耐えられるかどうか見極めて公然化させます。

暴行は当然彼らにも及び新聞梱包を切る鎌で足を切られた組合員もいます。暴行が進み極限かしてきたときに、全臨労OBが中心となって、塚田ら暴力スキャップを闇討ちしようか、そうでないともう持たないというような話をまじめに議論するところまでいきました。スキャップというのはスト破り要員の事をそういうのですがわれわれは組合弾圧に借り出されたそういう輩を皆スキャップと称しました。奴らを鉄パイプで袋叩きにしてしまおうという論議をまじでしたということです。暴行がそのくらい大変ではあったのです。西垣内弁護士は「丸山の手足の一~二本がたたき折られるくらいのことがないとなかなか社会問題化しないな」という感じで、もう少しやられた方が良いくらいのことを言うアバウトな人でした。とまれ、こういう大変な闘いをやりながら、地位保全の仮処分の裁判もやっていて争議開始から1年後いきなり朝日の側から和解したいといってきました。

店主がいきなり交代して、新しい店主がやってきたわけです。解雇撤回・原職復帰、謝罪・慰謝料・バックペイの支払い全部勝ち取りました。全面勝利です。この争議の教訓はこの販売店の新聞奨学生を全部組織化したことです。全臨労ではこの販売店単位の組織化と団結体の作り方を「店員会議運動」と言って理論化もしていました。労働条件だけの問題だけでなく、政治的な問題、生活や人生観、学校の問題や種々の組合員のすべての問題をかなり緻密に徹底して討論する会議として位置づけられていて争議のときは毎日その会議と闘争委員会が開かれました。丸山はそういう少人数の労働者を組織化する丁寧で、緻密な組織化に長けた人でした。ヤクザとの攻防でもそれを明るく語る人でした。身振り手振りでヤクザに暴行される話を面白そうに話すわけです。当然怒りはあるわけですが、面白い話になってしまい暗さがなくなるのがすごいと思います。こういうのを悲壮感を持って話すと暗くなりますが、そうではなくヤクザが表に出てきた争議は勝ちだという認識をもっていました。丸山の緻密な指導という点でユニークだったのが、模擬団交です。丸山が店主になって他のメンバーが丸山を相手に団交をやるわけです。丸山は店主の言いそうなことを想定しつつ、こちら側の弱点をついて論破してしまうわけで、他の組合員が泣いて悔しがるくらいの対応をして、団交で勝ちきれるような指導を行うのです。威勢の良いことを言っていてもいざ経営者の前では借りてきた猫みたくなるような人もいるわけで、一人ひとりの組合員を鍛えるのには有効な方法でした。

論破されて悔しかったら自ら学習もするようになりました。しかしこれはかなりの信頼関係がないとうまくいきません。下手をすると嫌われるか、潰してしまうようなことにもなるので簡単には真似はできません。新聞資本は全臨労の過去の争議の経験から全臨労はせいぜい1年しか持たない。そのうちつぶれるとたかをくくっていたと思います。全共闘最盛期の全臨労はそうだったでしょう。しかし、我々は腹を据えて労働運動をやるつもりでしたから構えが違ったのです。私はこの丸山に指導されて全臨労の運動を学んできました。ある会議で私が「また争議か」と言ってため息をついたその一言を後から「当該の前でお前はなんということを言うのか。当該がどういう気持ちになるかわかっているのか」と相当激しく弾劾されたことがありますが、そういう一挙手一投足から人の気持ちを読み取って対応していく人でした。丸山は数年後私という後継者を作った後で全臨労を離れて田舎に帰って信濃名鉄運輸に入り、直ぐにそこの中央執行委員になりました。組合活動家としては優秀でどこでも活躍できる人物でした。

この争議の過程で今ひとつ大変だったのは、争議開始直後、第7期中央執行委員会全員が指導放棄して逃亡してしまったのです。「滝野川東部朝日」の解雇撤回闘争を「反射的自己貫徹的回転運動」と罵倒して、臨時大会を開くと言って、一方的に議案を読み上げ、「東洋管材分会」という朝日関連の分会が全臨労を脱退して、全国一般南部支部に加盟して、中央執行委員会は全員辞任とか言って退場してしまうのです。残された朝日5分会、発送毎日分会、輸送毎日分会、販売支部(文京・北・江戸川)が残り、丸山執行委員長体制を作り、争議をやりながら全臨労再建の闘いに入るのです。

「滝野川東部朝日」の勝利によって販売支部3分会は自信と確信をもって販売店の新聞奨学生の組織化に乗り出します。全臨労の組合としての強さは組合員一人ひとりがオルグにならなければならなかったということです。専従オルグはいませんから組合員が全員でオルグとなって組織化に乗り出しました。先に述べたように「労働条件実態調査書」というアンケート形式のパンフを作り、それを順番に答えてもらうとその行為そのものがオルグにあるように作ってありました。職場の実態や労基法違反の実態も直ぐに聞きだせるようなアンケートです。「立ちんぼ」という路上待ち伏せオルグと配達途中で仲良しになってオルグするとか。配達終了後一定の地域に集中してオルグに入り、組織化する方法もあります。「動員オルグ」と言っていました。そういう方法をとって北分会では「滝野川東部朝日」の勝利後、「北王子毎日」の組織化に成功します。ここは専業は一人、15人の配達員が新聞奨学生というちょっと変わった店舗で、5名くらいのベテランの学生を「学生部長」という名前をつけて管理職のようにして学生が学生を管理するシステムを作っていました。ここの学生部長以外の10名を一旦全員組織化します。最初一人の学生とつながりを作り、その学生が二人目を連れてくると言う方法で、喫茶店でのオルグでした。学生は全員店の二階に住んでいて、皆が一斉にいなくなると不信を買う危険があったので風呂道具をもって店を出るなど偽装して10名が集まります。興味深いのは最後の10人目が全体を組織してまとめる力を持った人間でした。そういうリーダーになれる人間が必ずいるものです。これも組織化の一つの環です。

しかしリーダーになれる人間が階級的労働運動の担い手になれるか否かはその後にかかってくるわけで、この苅田というリーダーは争議の最後まで闘うのですが、その後活動家にはならなかった人物です。指導の問題であり、当時の北分会・販売支部の限界性でした。ともかく彼は10人をまとめるリーダーだったのです。彼を抑えたことで丸ごとの組織化に成功して公然化した闘いに入ります。北王子毎日の店主は荒谷正男といって販売店を3~4店舗経営している毎日の中では大店主に入る人物で、かつて全臨労の争議を経験していました。緒戦の闘いには勝利して、組合側の要求は一定程度実現します。77年夏頃のことです。しかし翌年の2~3月に弾圧が開始されます。予備校生の大学入学と専門学校生の卒業に合わせた弾圧でした。

中央大学に合格したメンバーは店を移らなければならなく、残った3人に就業規則違反を理由に懲戒解雇攻撃がかけられました。朝配達に行くと店に張り紙がしてあって解雇だというのです。3人の配達区域にはスキャップが配置されていました。解雇された3人の代わりに配達をしていたのが、山口団という拡張団から送り込まれた人間です。山口団という拡張団の団長は暴力団松葉会の金バッチをつけた山口を団長とする新聞資本の私兵でした。3人は就労闘争を展開し、山口団のスキャップを潰します。潰すといっても配達をしているその輩を説得するわけです。解雇の経過や、荒谷がどんな不当な弾圧をしているか配達途中ずっと付け回して弾劾したり、説得したり、オルグめいたこともするわけですね。すると軟弱なやつだったと見えて、一人はその場で「もう辞めた。分かった。こんなことはやってられない。俺は静岡に帰る」といって配達途中自転車を放り出して田舎に帰ったわけです。山口の手先になっているのが嫌だったのかどうか分かりませんが、動員された配達員はそういう風にしてつぶれました。

他方、毎日新聞のパレスサイドで松葉会導入を徹底弾劾するビラまきをしました。そのビラには「極東組系松葉会」と書きました。誰かが松葉会は極東組系だと言ったからです。早速組合事務所に山口から電話があり「松葉会は博徒だ。極東はテキヤだ。極東組系松葉会とは何事だ。謝罪しろ。組合はいくら金を出すんだ」と言うわけです。もちろんふざけるな、暴力団は組合弾圧に加担するなと電話で応対しますが、山口も団体交渉の場に出てくる関係になってしまうわけです。山口は鉄砲玉=「懐刀」を一人連れてきて、団交の場に居合わせることまでやりました。落ち武者・死神のように髪はぼさぼさ、シャブ中のように目がくぼんだやつでした。「懐刀」というのは親分のために体を張って鉄砲玉として相手の命をとるために動く人間のことです。丸山に対する恫喝のためにそういう人間を同席させたということです。組合は抗議しましたが向こうは関係者ということで居座りました。暴力団を引き出したのは良いのですが、そこまで踏みこませたのは間違いだと総括しました。

松葉会はかつて毎日新聞が紙面で元号問題で何か書いた時に毎日新聞内に突入して輪転機に砂を撒いて新聞発行の妨害をした「松葉会事件」というのがあり、タブーの暴力団なのです。その時から毎日に取り込んだ可能性もあります。ともかくビラの反応はすごくて松葉会も荒谷も追い込まれます。争議の過程で夕刊の時間に就労闘争のため3人が店に行ったとき、テレビで出てくるようなダークスーツと派手なネクタイをしてヤクザ風に正装をして、黒塗りの車で7人のヤクザが登場し、いきなり3人に殴りかかります。一人は鼻の骨が骨折しました。店は商店街にあるため白昼公然とした暴行です。王子警察署の○暴担当が直ぐに動いて7名は逮捕されます。ちょうど暴力団取締り月間とかいう時で露骨なのはまずかったのでしょう。これは松葉会が毎日資本から手を引くように言われ、最後のパフォーマンスとして「血を流した」ということです。店主・荒谷からそれなりの金を引き出して撤退したということです。この事件を契機に松葉会は手を引き、荒谷は和解を求めてきます。当該3名は学校の卒業時期と重なり、争議は解雇撤回・自主退職という形で終結しますが、争議としては勝利として総括しました。バックペイ・解決金・謝罪等は全て勝ち取りましたから。この時の弁護士の一人が中島通子弁護士です。2年前に事故で亡くなりましたが彼女も全臨労の裁判の弁護を数多くやってくれた人です。

この争議も販売支部全体の力で闘いぬき、こういう闘いと同時に世田谷の八幡山毎日、私の篠崎毎日の闘いなどの幾つかの組織化と争議を闘いとって販売店の組織化を進めてきたわけです。今日は触れられませんでしたが自分の販売店で組織化をして闘った経験が私にとっては一番大きなものです。私は組織化・争議など販売店や他の労組の支援など20~30くらい経験をしていますが、自分の販売店で組織化・公然化・解雇撤回闘争を闘いぬいた経験が一番実になっています。争議は全部勝ったわけでなく、八幡山の闘いは私がはじめて逮捕を経験した争議で、ロックアウト・解雇等激しい争議でしたが、7年闘いなし崩し的に終息せざるをえませんでした。しかしこの争議は私が大学卒業後も販売店に残り全臨労の運動を人生をかけてやりぬく最大の契機になった争議です。

後で述べる江戸川ユニオンの創設者の小幡氏は「全臨労の死に水を取るようなまねはやめろ」と私を全臨労から辞めさせて地区労のオルグになれと説得していました。他方、当時在日韓国人政治犯の救援運動を共にやっていた江戸川区職の前迫易子さんは「断固として全臨労でやるべし」と言ってくれてわたしの人生がそこで決まるわけです。八幡山の当該2名は解雇撤回闘争に勝利できませんでしたが、活動家として生涯を革命のために命をかける同志として今もがんばっています。全臨労の話は時間の関係でこのくらいにします。今話したようなことは『全臨労運動小私史』というこのパンフに全部書いてあります。これは私が全臨労委員長のときに1985年の浅草橋事件という国鉄分割・民営化に反対する、動労千葉のストに連帯した、武装ストで逮捕され9年半獄中にいる間につれあいに送った手紙です。

90年頃横浜刑務所に下獄した頃に「外では労働運動をはじめたから何か書け」と言われて書いたものです。私が出る95年になってパンプ化されたものです。刑務所では級によって手紙を出すのは週1回とか2回とか限定されていて、1回に7枚。それも1行に必ず1列で書かなくてはならない規則がありましたから、小さな字で書いて15回くらいに分割して送った手紙ですので思い出深いものがあります。先日あるところの倉庫から数部出てきましたので持ってきました。贈呈しますので読んでくれたら幸いです。

第二部 『合同労組の研究―その実態と法理』から学んだ合同労組についての話

次に『合同労組の研究―その実態と法理』(沼田稲次郎編著 労働法学研究所 1963年4月15日初版発行)から学んだ合同労組についての話をします。この著書は合同労組運動をやる人には必読の入門書だと思いますので関心のある人は読んでみると良いと思います。10年くらい前は葛飾の図書館にもあり、古本屋でも5000円くらいで買えましたが、今は都内では日比谷図書館にしかなく、古本屋でも数件扱っているだけで15000円くらいの値がついています。私も以前誰かから借りて読んで、抜粋ノートをつくりました。今回探しましたが紛失していて日比谷図書館から借りて読みました。以下の引用文はその本からのものです。

「第1次大戦後の労働運動の中核体であった日本労働総同盟が1912年に友愛会の名において発足した当時、それは合同労組主義を組織方針としていた。」(1頁)とあるように日本の労働組合は合同労組方式をとって出発するのです。合同労組方式というのは企業内組合ではなく、個人加盟制をとって企業の外に組織される労働組合のことです。しかし名称として合同労組とは名乗っていません。日本で一番最初に「合同労組」という名称を使った労働組合が現れるのは、「日本労働組合総同盟50周年記念事業資料蒐集委員会の『友愛会・総同盟50年史年表(上巻・1912年-1940年)』によっても、合同労組なるものがはじめて登場するのは、1924年(大正13年)2月20日に、東京の南葛労働組合が改称されて、東京東部合同労働組合に発展するときである。」(42頁)ということです。

東部には今でも「南葛一般労働組合」というのがあります。京成青砥駅の近くにあるので電車の中から事務所の看板が見れます。これは総評解散の時に連合へ行った全国一般の東部支部がそういう名前に改称して残っているものです。東京東部が日本の労働運動の発生の地というのはこの南葛労働組合・東京東部合同労働組合のことを指しています。この両者の名前を名乗る労働組合は今は存在していなく、一時期日共系で「東京東部合同労働組合」と名乗った組合が存在したことはあるようです。東部ユニオンの名称を決めるときにこれを使おうかどうか少し悩みましたが、さすがに気が引けて同じ名称は避けました。南葛労働組合は南葛労働会とも言い、1922年10月、東京府下南葛飾郡亀戸町で結成されました。今の江東区亀戸です。共産党中央委員の渡辺正之輔らが創立した戦闘的労働組合です。

しかし合同労組運動が本格的に取り組まれるようになるのは1955年以降です。
「1955年(昭30)350万を擁する日本労働組合総評議会第6回定期大会は、全国単産のそそり立つ連峰の間の広く深い谷間に働く労働者―それは中小企業に働く労働者であるが―の組織化に本格的に取り組むことを決意した。その組織方針は奇しくも合同労組主義とよぶべきものであった。」(1頁)

「合同労組の整理に当っては、産業別に整理統合の原則に立つ。かくて総評は傘下組合員から10円のカンパを募って-即ち大企業組合の負担において-100名の中小企業対策のためのオルグを全国に派遣し、定住して組織活動に当らしめたのである。その後約六ヶ年、「中小企業労働者の実情」の多様性に規定せられて、多様な様相の合同労組は全国各地に結成せられてきている。六ヶ年の運動は多くの経験を与えた。

一九五五年に右の方針の下に結成せられた全国一般合同労組連絡協議会は、一九六O年の第六回大会において、総評全国一般労働組合と改称して地方組織を構成単位とする横断的統-組織として一般合同方式による個人加盟の基本線を明確にするにいたった。」(2頁)ということです。先に出てきた渡辺勉とか設楽さんもこの後のオルグではあるけれどもこういった総評オルグです。

先に合同労組は個人加盟と述べましたが実際問題としてはそうでもなかったようです。それは職場で労働者をまとめて組織する場合は個人加盟かどうかということはたいした問題ではないからです。個人加盟制という形式に何か革命性を求める人がいますが形式はたいした問題ではないと私は思っています。問題は路線であり、時代認識であり、革命と労働運動を切り離すことなく志向できるかです。『蘇る労働組合』や『俺たちは鉄路に生きる』等で書かれている動労千葉労働運動のような労働運動を実践できるか否かが核心であって、労働組合に労働者が組織される形式はどんなものでも良いと私は思います。

次に著者の沼田稲次郎は「総評は、合同労組の組織化活動の推進のために、(1)組織拠点の設定、(2)オルグ計画の作成、(3)地評・地区労の組織強化をかかげている。それらはいずれも極めて重要である。オルグ主体そのものが強化される必要のあることは言うまでもない。それでは、合同労組自体は何をなすべきか(それはオルグは何をなすべきかという問題でもある)。その闘争と運営の重点は何か。」と自問自答して「固い団結を維持するには、組合として闘争資金を握らなければならない。もし50円しか絶対に組合費をとれないならば、歯をくいしばってその中から10円をスト基金に積みたてるべきであろう。…私はスト基金積み立て運動のごときを合同労組の中で展開すべきだと思っている。合同労組発展の“かぎ”は、賃金闘争とスト基金の確立にあるといえよう。」(25頁)と述べているのは重要です。これは合同労組の運動を進めていけば必ずぶち当たる問題で、絶対に必要なことなのです。

東部ユニオンとしてスト基金の積み立てはしていませんが、OSS分会としてはわずかでもスト基金を積み立てています。スト基金抜きにやはりストライキはできません。金がなくてもストライキをやる時がありますが、やはりスト基金を積み立てなければダメです。
沼田は労働法の学者であり、この本は今では大御所となった労働法学者が執筆陣に加わり「合同労組の特殊性にもとづく法律問題」という章もあります。

匿名組合員の問題、管理職が組合員になれるか等の問題です。実際に合同労組の運動をやっていく場合にぶち当たる問題です。先の全臨労の経験で言うと解放派に目をやられたわが派の当時の委員長は本名は杉何がしと言うのですが、組合では「徳間悟」を名乗り、全臨労の当時の委員長は徳間悟です。ですから全臨労の委員長は匿名組合員だったのです。これは全臨労への弾圧が凄まじく、杉並の新聞販売店で働きながら委員長をやっていた杉に対する弾圧を避けるためだったようですが、組合内部でも批判はありました。委員長が匿名というのはないだろうということで。しかし合同労組の場合は弾圧を避けるために匿名組合員を抱え込む場合も多々有りその場合の法律問題があるということです。管理職の問題では管理職ユニオンが成立するように、管理職を抱えても問題があるわけではありません。東部ユニオンにも管理職の組合員が二人います。今では名ばかり管理職という言葉があるように実態は労働者です。労組法的にも問題はないということです。積極的に管理職でも良いというわけではなく、そういう人でも合同労組の組合員でありうるということです。

次に著者は「合同労組の組織論的検討」を行っています。
「しかし、この少数、例外的な、個人加盟方式で組織する労働組合運動の主要な担い手が、自分たちの運動を合同労組運動と呼ばなくなったのには、理由がある。 地区・地域の結集を主要な組織形態とする段階から、それは、彼らの運動が最近二-三年のうちに、その運動の目標と力点とを、地方および全国的規模の団結を主要な形態とする段階―地区または地域の合同労組運動ではなく、全国一般労組や全国(又は地方の)産業別単一組織が志向されはじめた。そして、今日でも、未組織労働者の大多数が、中小・零細企業の従業員である事態は、さほど変化はないので、中小・零細企業労働者を対象とする組織化が、合同労組運動の段階から、一般労組や産業別単一組織の全国(地方)組織の形態をとるところの個人加盟労組運動へと展開しはじめたといってよいであろう。」(39頁)

ここの部分は合同労組運動を志向する上で結構重要な点です。我々は今のところは極めて少数なのでこういう問題にぶつかっていないわけですが、これが数千、数万という単位での組織化が実現するようになったり、産別的に広がるような組織化が進んだ場合はこういう問題が出てくるのです。全金が合同労組を名乗らないで「全金」としたのは全国的な金属の産別組織に発展したからであり、合同労組が成功するのは産別や業種別に特化した場合が大きいのです。他方、産別に関係なくどんな業種でも産別でも入れる労働組合は産別としては何でもありということで「一般労働組合」を名乗ります。これが総評全国一般です。だから産別や業種別に特化して合同労組をそういうものとして形成していくのか、あるいは地域一般労組として形成していくのかはひとつの分かれ道になります。このような問題意識に関連して沼田は次のように述べています。

「さて、最近の合同労組をめぐる論議のうち、『組織論・運営活動論的分野に力点』を置いた開拓者的労作、江原又七郎教授の著『日本の合同労組』(法政大学出版局・昭三五)では、戦前の合同労組について次のようにだけ、ふれている。
『元来わが国で合同労組の名を用いた労働組合が結成せられたのは、けっして戦後のことではない。戦前から、主として職種別・業種別に整理できない雑業者・自由労務者を結集した、地域別の横断的組織が全国各地に結成せられ、、これらを『合同労働組合』と称し、他に、『一般労働組合』の名称を用いたものもあり、ほぼ同様の性格のものであった。これらは当時の工場内組合を基幹とした有力な業種別・産業別組織に互して、弱小ながら、たとえば総同盟等戦前の全国的諸組織系統に属して、それらの下部をなしていたものであったが、それぞれの上部組織の解消とともに、比較的短命のうちに、すべてその姿を消してしまった』(20頁)

以上のように述べた後で次のように展開していますが、合同労組の定義といいますか位置付けとしては次の点が正鵠を射たものだと私は思います。

「合同労組は、戦前のそうした組織理念としては、あくまで、地区・地域の未組織労働者を企業・業種・産業の別なく、個人加盟方式で結集した際に称せられるもので、それは、将来、組織が拡大、発展した場合には、当然産業別整理の対象となるものと考えられた。これに対して、一般労働組合は、その地域(例えば中小都市)の特殊性や、労働者の種類、階層の特殊性から、雑産業の労働者を結集する個人が加盟方式の組合を指すのであって、その将来の組織の拡大、発展の場合は、そうした、企業・業種・産業の別なく、雑産業のままで、全国的規模を持つ一般労働組合になるはずのものである。つまり、将来の組織形態としては、合同労組の方は、産業別整理をへて産業別単一組織を目指すものであり、一般労働組合の方は、雑産業労働者の結集のままで、全国的一般労組にもなろうというものであるといえようか。」(47~48頁)
「現状はともあれ、今日の合同労組運動において措かれるべき労働組合の基本的組織形態は、『中小・零細企業に雇用される労働者を地域または地区に、企業とは関係なく、個人加入を原則として結集する単一組織』であるといわねばならない。そして将来においては、さらにこのような地方組織の統合の上に立つ全国的な合同労組の出現が期待されるであろう。現在存在している総評・全国一般-各地方本部-各合同労組の組織系統も、そのときには全国一般-各地方本部-各地域支部-職場組織の形態に近づくことであろうし、そこには、いわゆる一般労働組合(general union)の完成された姿がみられることにもなるのである。」(54頁)

上記の記述が合同労組と一般労組の特徴の違いを明らかにしている点で極めて重要な指摘だと私は思います。合同労組は産業別または業種別に特化して産業別に整理されていくもの、一般労働組合はいろいろな産業・業種を組織したまま拡大していくものをさしています。どちらかというと合同労組は金属・紙パ・清掃などなどといように産別・業種を特定した方が成功するということであり、そういう必然性もあるということ。他方、一般労働組合は業種・産別にかかわりなく何でもありの組織を目指すということです。具体的には全国一般のような組織ということになります。今我々が進めているのは「地域一般合同労働組合」であり、数千、数万の組織になった場合にどうなるかはそれからのことであり、今から心配する必要はありません。ただはっきり言えることは地域に私はこだわった方が良いと考えています。東京レベルだと「東京合同労組」という大きな地域ではなく、東部・西部・南部・北部というような地域レベルでの合同労組方式をとった一般労組です。どんな業種・産別の誰でも入れる労働組合です。しかしいろいろな産別・業種の人が一人二人寄り集まるということではなく、その一人二人が自らの職場で分会を組織して100人、1000人の分会を組織してその拠点労組がその地区の合同・一般労組の中心軸になって地区の合同・一般労組運動を推進していくというイメージです。拠点労組を組織してその財政力を駆使して専従をおき、事務所を維持して未組織労働者、とりわけ青年労働者を組織していくことが求められています。この場合、その拠点労組はその後の合同・一般労組から離れて産別に整理されていくことには私は反対です。あくまで地区合同労組の中心として、未組織労働者の組織化の中心に座るべきだと思うのです。このあたりについてはまた後で触れます。

次は「統一労組」とは何かという問題です。

「総評翼下の単産で合同労組方式を採用しているものには、全国一般、全印総連、全国金属、紙パ労連、合化労連などがあるが、近年、産業別単一化の動きがこれらの単産でも顕著になりつつある。それにつれて、合同労組も中小労連型の組合から脱皮して、名実ともに単一化された統一労働組合の形態にすすむべく努力がつづけられている。その動きが最もいちじるしくあらわれている全国一般の状況について、以下にその概要を示しておきたい。
総評全国一般労働組合は、昭和三五年六月の第六回定期大会において、統一労組確立のための基本方針を採択した。それまでは、企業別単位の組織を地方的にまとめた中小労連方式が支配的であったが、この組織方式では、交渉権・協約締結権・罷業権の労働三権は、企業別単位の組織に所属するため、中小企業自体のもつ半封建的な労使関係つまり、企業内組合のもつ欠陥と弱点が、そのまま合同労組の中にも受けつがれていたのである。

そこで、右の第六回大会は、このような組織内部の弱点を批判・検討し、統一労働運動に着実な成果をおさめてきた広島一般労組の経験にも学んで、全国的統一組織を打ちたてるための規約改正にふみきった。そして、従来、地連・一般合同とよんでいた名称を地本と改称し、労働三権および組合費、罷業資金、犠牲者救援資金、共済資金を地本に集中すること、労働者は地本に個人加盟する建前をとり団結と統一の拠点を一地方一組織とすること、できるだけ各地本オルグの増員をはかり組織化活動や闘争指導を強化すること、などを決定した。つまり、組合員一人一人を組合すなわち地本に結集させ、地本が個々の労働者の賃金の決定権を握って、統一的な指導体制を確立するという、統一労組方式が確認されたのである。このような統一労組方式にふみきった動機は、企業別単位の組合の連合体では、使用者と対等の立場を確保できず、また、労働者の生活と権利が共同の体制と責任において守られにくいこと、などにもよるが、根本的には、労働組合の任務は、労働者の要求を獲得するための闘いの中で、労働者の団結と統一を築き上げてゆくことにある、という認識に根ざしている。すなわち、労働条件の維持改善それ自体が労働組合の任務のすべてではなくて、労働者階級を団結させ統一することこそ組合運動の目標でなければならないから、個別企業をこえて地方組織から全国組織へと単一化ししてゆくことが正しい方向である、という理解が行われているのである。」

「統一労組は、原則として組合員の個人加入方式をとり、支部は、多数の組合員を有する職場支部と、多数の居住者を有する地域支部とに分れる。そして都道府県別単位に一組合(地本)を組織する。しかし労働三権は地本に属し、支部は独自の行動をとりえない。職場支部における職場委員会は、組合組織の分肢としての基礎組織であって、組合組織に従属し、その監督をたえず受けなければならない。各地方組織(地本)は所属の職場委員会に対して責任をもち、これを正しく指導しなければならず、また、本部と地方組織との意思統一を強め、地方組織の活動を強化するために、オルグ活動、執行委員会および活動家会議の開催、常任執行委員の任務の強化、教宣活動の強化などを行なう。他面、組合の民主的運営と個々の組合員の発言権の尊重が、きわめて重要な意義をもっと解されている。つまり、地方組織の強力な指導性と民主的な運営という二つの相反する局面をどのように調和し発展させるかということが、統一労組の大きな課題となっているわけである(大門・前掲一四-五頁)。」(94~97頁)

先に全臨労は「統一労組」であると言いました。統一労組というのは労働三権を地本あるいは中央に集中するということです。中央執行委員会に全ての権力が集中した形が統一労組なのです。そうでないと統一闘争ができないし、個人加盟制の合同労組の意味がないというわけです。これは企業内組合の連合体ではない性格を脱して、単一の産別労組を目指す必要性から志向されたものですが、サンディカリズムのアナーキー性から言うと極めて矛盾的です。労働三権を中央に集中する仕組みは結構難しいもので全臨労とて実際には企業内組合の連合体のようなものになっていました。それはある意味では当然のことで中央集権的な組織的統一性、一体性は決してそういう規約や機能によって為されるものではないからです。繰り返しになりますが、やはり路線であり思想性が労働組合の団結体をつくる上でも核心だということです。党でも労働組合でも中央の指導部が規約や形式民主主義で指導部であるわけではなく、路線・思想性・指導能力があるかどうかで組織の指導部足りうるわけです。中央集権と組織の民主主義の貫徹という問題は組織活動をやる場合の永遠のテーマかもしれませんが、いえることは形式民主主義ではなく、何を目指してどういう路線・時代認識のもとで指導部が全責任を負って、なおかつ組合員に徹底的に依拠した組合民主主義を貫徹していくことだと思います。

後はこの章のまとめとして、組織化の方法の問題について触れたところを抑えてこの本から学んだ合同労組の話をまとめたいと思います。

「ある企業の職場で、これはと思う労働者個人に接触し、勧誘し、説得し、個人組合員に獲得してゆき、それを伏せておきながら、一定数の参加を見て、大会を開き、分会を確立して地域支部の傘下に入れるわけである。ところが、そういうのは手工業的ではないのか、という反省である。それなら、手工業的を克服した方法はどうか。例えば、その地域で、闘争が起る、大会がある、集会が盛んに持たれるという、状況・ふん囲気の中で、集会や応援ピケその他の共同行動に参加した労働者たちから、集団的に、一挙に組合員を獲得するようなことである。いいかえると、従来の企業内単組の組合結成方式が、職場での労働者の一括加入方式であるのに対し、地域での労働者の一括加入方式を考えるもので、したがって、職場での一括加入方式の場合もそうであるように、地域労働者のこうした一括獲得の前に、その準備段階として、加入・結成に同意する労働者個人に対する勧誘、説得がある場合もあるということである。ただし、個人加盟の形式を組合員証発行等で明確にすることは、この地域的一括獲得の場合も考えられている。」(141頁)という視点も興味深いです。前半で述べられていることは通常我々がやる一般的な活動です。しかし後半の話は私が全臨労に組織された経緯と重なり合います。地域で争議やストライキが闘われ公然とした闘いがやられるときに一挙的に組織拡大の可能性があるというのです。全臨労では解雇されたり、弾圧があるときに店に押しかけます。その時にその店の他の労働者と論争したり、説得的な討論がなされる時があります。こういうのを「肉弾オルグ」と称していましたがそういう組織化の方法もあるということです。

第三部 合同・一般労組においても動労千葉労働運動を実践する

西部ユニオンをはじめ我々の「地域一般合同労働組合」含めて多くの地域合同労組が「ユニオン」と名乗るきっかけとなったのは、1984年3月結成の「江戸川ユニオン」からはじまるユニオン運動です。このユニオンの生みの親は当時江戸川区労協のオルグで今は自治労組織局アドバイザーをやっている小幡精武さんです。戸塚秀雄編『新世紀の労働運動』の翻訳にもかかわった人です。彼は「コミニュティ・ユニオン全国ネットワーク」の顧問でもあります。小幡さんはフィリピン労働者を組織化するために英語だけでなく、タガログ語を勉強したりするなどオルグとしては優秀な努力家でアイデアマンでもありました。下請け清掃の組織化に成功したのも彼の手腕によるところが大きいと思います。彼は当時はフロントの中央委員です。

フロントというのは正式名称を「日本共産主義革命党」と言って、中野さんの「蘇る労働組合」の197頁の注にある構造改革派の一派です。今の状態でいきなり革命は無理だから「深部の力関係を変えて、革命しやすい状態にしてから革命をやるんだ」というような二段階革命論の亜流です。一国社会主義論は正しいという立場に立っていました。だからどういう一国社会主義が正しいかということになり、ユーゴスラビアみたいな社会主義が良いという話になるわけです。武波龍というペンネームを持つ東大出のイデオローグもいました。タケナミリュウと読むのですが、「ブハーリン」とも読めます。この人はブハーリン信奉者でした。スターリンと一緒に一国社会主義論を理論家したのはブハーリンです。私がフロントについて詳しいのは私はフロントの小幡さんと一緒の細胞だったからです。今連合総研にいて、都労委の労働者側委員をやっている水谷研治さんと3人の細胞です。

全臨労は分会ごとに党派色があって江戸川分会はフロントだったので民青からそうなってしまったわけです。ともかく江戸川ユニオンはそういう構造改革派のセンスで作られたユニオンであり、江戸川ユニオンが結成される時は私はフロントからは離れていました。しかし全臨労江戸川分会として地区労には加盟していました。地区労加盟は全臨労の方針からは逸脱する面がありましたが、全臨労的にはまあいいだろうという感じでした。フロントとしては地区労内政治のひとつの拠点として全臨労販売支部江戸川分会を位置付けていました。オルグ二人が江戸川区労協の専従ですが、フロントが影響力を持つ労組は全臨労以外にはありませんでした。だから地区労青年協を結成した時は私が副議長をやりました。地区労での経験もいろいろあり重要ですが今日は省略します。江戸川ユニオンは当初印刷屋やかんばん屋の経営者も含めて組合員にして組織したのでこれは一体なんだというのが私の当時の印象です。

組合費は一律2千円でそのうちの千円は全労災加盟の共済費です。そうやって10年後には280人まで組合員を増やしましたが、今はほとんど組織実態がないユニオンになっています。江戸川ユニオンが成立しえたのは江戸川区労協という組織があってはじめて成り立ったわけです。組合事務所も江戸川区労協内において専従費も地区労からの援助です。江戸川区労協は江戸川区職労4000人の財政基盤があって成立してきました。当時は全逓・全電通・水道・都高教・国労・教組等々の四大産別と民間という構造ですから成り立ちえたのです。私が地区労で活動していたときは映画『奴隷工場』のモデルとなった全金日本ロールの千葉委員長が会計監査をやっていました。私は小幡さんと一緒に組合周りをしたので争議のとき使われていた組合事務所にも行きました。

あの映画のハイライトシーンの日比谷野音集会のエキストラは江戸川区労協をはじめとした東部地域の労働者や全金の労働者でした。全逓の組合員から動員費をもらって映画のための野音集会に行ったもんだという話を聞きました。連合結成はこういう地区労解体攻撃でもあったわけです。現在の「コミニュティ・ユニオン全国ネットワーク」はこの江戸川ユニオンからはじまる、コミニュティ・ユニオン運動の流れの中にあります。今年の20回全国総会は9月に千葉で開かれました。「公正なワークルールの確立と社会規制を求める運動」「合理的理由のない有期契約禁止」などという「方針」が羅列されています。「合理的理由のある有期契約」とはどういうものを指すのか聞いてみたいものです。この全国ネットは現在29都道府県71ユニオンがあり、15000人が参加しているとのことです。12・4集会の呼びかけの中心もこの全国ユニオンですが。我々の合同・一般労組の運動はこういう市民運動と労働運動の中間形態のような運動を目指そうとするのではなく、合同・一般労組にあって動労千葉のような階級的労働運動をやろうということです。

しかし「ユニオン」という名前が一般化して我々もそういう名称を使用しているのは事実であり、江戸川ユニオンの存在は無視できません。実は私も江戸川ユニオンに半年ばかり加盟して組合費を納めていました。しかし後から組合として正式な手続きを踏んでいなかったし、浅草橋を自己批判しない人は組合に入れられないと言って払った組合費を現金書留で郵送してきました。直接江戸川ユニオンの書記長と話したときにわかったことですが彼らは私が江戸川ユニオンに入って江戸川地区労センターのオルグになることを恐れたのです。「小泉さんがユニオンの組合員になったらオルグになってしまうかもしれない。それは困る」とはっきり言いましたから。旧社会党がそんなことを許すはずがないのでそんな心配は取り越し苦労なのですが、そのくらい恐怖したということです。

今我々の「地域一般合同労組」はさしあたって種々の職場の組織化を行っています。産別・業種を問わない何でも屋です。このまま仮に組織拡大するとなると一般労組の分類に入る運動をわれわれはしていることになります。先の『合同労組の研究』にあったように合同労組の場合は産業別・業種別に特化していった方が成功する例は高いわけです。そのあたりを考慮して戦略を練る必要があります。そうなると受身の労働相談型組織化ではなく、組織対象を明確にして攻めのオルグ戦に入ることになります。例えば全臨労の販売店の学生臨時労働者を組織化した「立ちんぼ」オルグや「労働条件の実態調査書」を使ってのオルグはゆうメイトやJP本体の労働者の組織化にも適用できると私は考えています。

郵政労働者を組織するための独自ビラとそれに絞り込んだオルグ展開をやってみるということです。組織的に計画化して継続してみると必ず結果が出ます。東部ユニオンでもそういう話をしていますが、まだ東部ユニオンでもそういう方針にビビッドに反応する人は少ないです。やって見せて一人でも組織できたらみんな動き出すかもしれません。

いずれにしても非正規の青年労働者、青年の派遣労働者を組織することに重点をおいた組織戦略を立てて組織化することだと思います。

全世界と日本の青年労働者が「生きさせろ」の反乱を開始しています。全世界のすべての労働者が立ち上がる情勢が来ました。全世界が革命情勢です。「労働運動の力で革命をやろう」と言い切る我々の組織の登場が今こそ求められています。我々以外にこの青年労働者の怒りを解き放つことはできないと思います。

今青年労働者がおかれているのは正規も非正規も生きていけない現実です。「正社員にいたっては、4割近くが残業代不払いの状態」「契約社員や派遣社員の4割以上が元正社員」(『世界』10月号)『ルポ “正社員”の若者』(岩波書店)でもきついノルマ、長期間労働・過密労働、低賃金の実態が暴露されています。『官製ワーキングプア』(七つ森書館)にも描かれているように自治体労働者の200万首切りはすでにはじまっています。。

したがって正規・非正規一体となった四大産別の闘いが基軸になるのです。四大産別の体制内労働運動の敗北の結果として非正規雇用の増大があります。四大産別における非正規雇用を生み出さない闘い、民営化絶対阻止の闘いが基軸なのです。合同・一般労組の運動を四大産別や正規雇用の体制内労働運動の敗北の結果生み出された非正規労働者を組織対象として、非正規雇用労働運動のネットワークのようなものにしてはならないと思います。合同・一般労組は常に四大産別や全ての労働運動全体の変革のために闘わなければなりません。合同・一般労組が民営化絶対反対の闘いの先頭に立たねばならないということです。合同・一般労組の組織化や闘い・争議含めてそこで自己完結するような運動は、結局体制内労働運動に取り込まれていきます。合同・一般労組の運動は全ての産別にまたがり、非正規雇用労働者を主要な組織対象にするだけにそういう傾向を持つ危険性が常に孕むということを自覚的にとらえなければなりません。

この間仙台、岡山、広島等の合同・一般労組のゆうメイトの青年労働者に対して、雇い止め解雇が乱発されました。岡山の場合は解雇撤回闘争に恐怖して懲戒解雇攻撃をかけてきました。しかしながら広島の青年労働者はストライキで反撃しました。岡山の青年労働者は「体制内労働運動を階級的労働運動に変えたい」と職場前でビラをまき闘っています。彼らの闘いは郵政分割民営化絶対反対とJP労組の体制内指導部打倒を掲げた、郵便事業職場での「1047名」闘争そのものです。ゆうメイトの青年労働者の存在抜きに郵政事業は成り立ちません。大小8000社、133万人(2006年統計。5500万全労働者のうちの2・6%)に及ぶ派遣労働者の存在抜きに日帝経済は一日たりとも立ち行かないわけです。契約社員、パート・アルバイト、派遣等非正規労働者は1738万人(全労働者の33・7%)に及びます。ゆうメイトが組織されストライキに立ち上がったら郵便事業は止まります。1047名の解雇撤回闘争と派遣・非常勤等全ての産別の青年労働者が結合して決起したらどうなるのでしょうか。青年労働者の総反乱を日帝は心底恐れているのです。

しかしこの青年労働者の怒りと反乱はさしあたりは日共や連合や体制内派の「ユニオン」や「合同労組」に組織され、収斂されている場合が多いのです。これらの労働組合は最低賃金をいくらか引き上げろ、労働者派遣法を部分的に手直ししろというものでしかありません。

例えばそういうユニオン運動のひとつに、「改良主義的提言運動」とでも言うべきものがあります。『世界』(10月号)で書かれていた「共同提案」木下武男、小谷野毅らガテン系連帯の流れがそれです。ガテン系連帯というのは、リクルート社が発行する『ガテン』という求人誌に因んだ名前です。きつい仕事を合点がいく明るいノリでこなしていこうという意味の造語が「ガテン」であり、「バラバラにされている製造派遣の仲間同士のつながりをつくりたいと願ってつけられた名前」(『シリーズ労働破壊 第1巻偽装雇用』21頁)が「ガテン系連帯」です。ここでは偽装出向の問題が「日研総業ユニオン」の委員長の体験談として語られています。その他、フルキャストユニオン、日立製作所マイクロバス事業部の偽装雇用、日産自動車派遣の闘い等のことも書かれています。

「日野自動車が派遣社員を利用して得る経済的利益はどの程度なのか。やや単純化して、正社員を派遣社員におきかえることで一人当たり年間300万円の労務コストを節約できたとして試算すると、派遣社員1000人で1年間に30億円という驚くべき数字になる。…派遣社員のこうした犠牲で日本の産業界全体が手にした利益は毎年数兆円規模に上るだろう」(同44~45頁)

日産自動車の生産調整会議は年3回あり、大きな変動は1ヶ月ごとに決まります。月収30万と約束しておきながら生産が減った月は寮費などを差し引かれると10万円にまで手取りが落ちるといいます。

このシリーズは3部作でシリーズ2はグッドウイルやフルキャストユニオンの話です。派遣労働の問題性が暴かれていますので読んでおく必要のある本かと思います。ここには次のような事例がが書いてあります。日雇い派遣のある勤務の場合、7時05分集合、8時~17時まで勤務、手にした日当6500円だったとします。この場合7時05分から8時までは無給で業務管理費が250円差し引かれています。交通費1000円も含んでいるので基本の賃金は5750円。月に23日働いても13万8000円にしかなりません。篠原涼子が主演した「ハケンの品格」の設定は時給3000円のスーパー派遣労働者ですが、年間切れ目無く働いても1800時間がやっとでそれでも年収は540万にしかなりません。一時金も退職金もないのだから高いわけではないわけです(同153頁)。

この著の結論は

①    労働者派遣法の抜本改正

A 登録型派遣の原則禁止
B 派遣可能業務の規制=専門的職種に限り派遣を認める
C 派遣業者のマージンを法的に規制する

②    合理的理由がない有期雇用は禁止する

③    最低賃金の大幅な引き上げとリビングウエッジ(生活賃金)条例の制定

A 最低賃金を直ちに全国一律1000円以上とし、近い将来1200円にする。
B 各自治体に生活賃金条例をつくり、最低賃金を上回る地域賃金相場をつくる。(同154頁)です。

しかし、こういう改良的要求さえ認めないのが新自由主義です。派遣業界や請負業が深々と日本経団連の中枢を占めるようになっている今日、日本帝国主義を打倒する以外に解決の道はありません。

シリーズ3はマクドナルドの店長高野廣志さんの闘いやスカイラーク、コナカの闘いが登場します。後ろの二者は東部労組が当該労組です。コナカの場合は団交が始まってから3週間で会社は「●一般社員約720人に対し、未払い残業代として約9億円を支給する。 ●店長など管理職約400人に対し、特別賞与として4億7000万円を支給する」(同134頁)という解決策を出してきました。しかしこの時点ではまだ店長は管理職扱いで問題は何一つ無い決していませんでした。

似たような流れで「反貧困ネット」があります。その中心人物の『反貧困―すべり台社会からの脱出』(岩波新書 2008年4月22日第1刷)の著者の湯浅誠さんも我々には真似のできないような運動をされています。この著書に彼が派遣ユニオン・エム・クルーを結成(2007・10・1)するくだりがあります。

エム・クルーは「日雇い労働者を集め、『飯場』と呼ばれる寄宿舎に寝泊りさせ、そこから工事現場に派遣して、建設現場の肉体作業をさせる」(同149頁)会社です。日当8000円で働かせ、1日3000円の寮費を取ります。3日に一回しか働かせないとすると15日の間に会社に5000円の借金を背負うことになる飼い殺しシステムです。エム・クルーは安全協力費の名目で1回働くごとに100~300円、福利厚生費として200円天引きしていました。フルキャストやグッドウイルがやっていた法的根拠がない250円~200円の天引きと同じようなものです。労働組合を数人で結成し返還を要求すると過去2年分については返還を約束し8000万円の支払いをしたといいます。労働組合の力です。しかし、その後この会社は従来の日給単価を7700円から7400円にすることで違法天引き分を取り戻そうと悪あがきをしているわけです。湯浅さんは自分でエム・クルーの派遣労働を経験し、その当該として闘うということをやるわけです。しかし彼は「この社会を変えていく以外に、『すべり台社会』から脱出する方途はない」(220頁 前掲『反貧困』)と述べていますが、その中身は「貧困と戦争に強い社会を作ろう」が「あとがき」の結論であり、「反貧困ネットワーク」なのです。

これは連合・全労連との共同の運動であり、だからマスコミ受けしてもいます。12チャンネルの「ガイアの夜明け」も同様の流れです。しかしながらこういう番組が放送されるのはNHKの「ワーキングプア」の放送と同様に大きな反響を巻き起こします。『反貧困』によれば「もやい」に対するアクセスもNHKの番組から画然と増えたとのことです。『ワーキングプア』(NHKスペシャル取材班著 2007年6月11日第刷)は今9版を重ね広く読まれています。

以上の3部作や『反貧困』はどれも驚くべき話ばかりです。違法性を暴いて残業代や違法な天引きの返還を勝ち取るまではマスコミ受けもするし、社会問題化もします。しかし問題は違法性が無くなり合法的になったから良いという問題ではないと思います。派遣法や偽装請負、名ばかり管理職の問題は日本帝国主義の構造的、根幹的問題であり、我々は革命を目指す労働運動を対置して体制内労働運動と対決していかなければなりません。動労千葉労働運動をユニオンにおいて実践していくこと以外に無いと思います。

労働組合運動は、目前の生きるか死ぬかの切実な問題の緊急の課題を解決できる能力を持たねばならないわけです。われわれにはそういう力と蓄積が少ないことは認めなければなりません。これは大きな課題です。しかしそこに留まるならば体制内のセーフティネットの補完物としての役割、ガス抜き組織にしかなりません。われわれの運動はこの労働者の怒りを階級的団結にまで高めて、根本的な社会変革-革命にまで向かう質と内容を持たなければならないのです。

関西合同労組の一部指導部と連なる一派は非正規雇用の労働者の組織化を「戦略的な課題」「ここに手をかけたとき労働者階級の階級性がよびさまされる」と述べています。しかし四大産別や基幹産業の労働者と非正規雇用労働者を分断し、新自由主義攻撃、最末期帝国主義が労働者階級総体を貧困・飢餓・殺戮に追い込み、労働者階級の生命と生存をも奪うという攻撃に対する、帝国主義を打倒する立場からの主体的決起は一切ありません。あるのは情緒的不満とブルジョア民主主義的諸権利を守れという程度のものです。彼らには労働運動を革命と切断する体制内志向しかないのです。青年労働者を革命の主体として位置付けないがゆえに、「労働運動の力で革命を」と決起する青年労働者に対して「からさけび」などという悪罵を投げつけています。動労千葉が切り拓いてきた階級的労働運動に敵対し、対抗する主張として「非正規雇用労働者の組織化」を弱々しく掲げているだけなのが彼らです。彼らが拠り所とするのが大庭パンフです。大庭パンフ批判の詳細について今日は言及しませんが、「大庭パンフ」の最大の問題は、労働運動を革命と切り離す体制内志向そのものだということです。労働組合の党派性の否定と党派闘争の否定は資本と闘わないということと同義です。

「今私たちはどこに力を集中して闘いを組織すべきでしょうか。結論を先に言えば、非正規にたいする賃金その他の差別を撤廃し正規化をかちとることです」((『今、労働運動はキミに何を求めているか 非正規雇用と地域合同労組運動の可能性』(大庭伸介著 7頁)

と書いています。大庭は正規雇用=組織労働者=企業内本工労働組合と決め付け、四大産別などの基幹産業の組織労働者の労働運動を完全に無視しています。階級格差の拡大、資本攻勢と非正規雇用の進行は「雇用政策」一般ではなく帝国主義の基本矛盾の激化に要因があります。帝国主義体制の行き詰まりが二極化の根本原因です。基幹産業や四大産別の組織労働者の存在ぬきに労働運動の階級的発展はありえないのです。

今日の帝国主義体制をそのままにしておいて「賃金その他の差別を撤廃し正規化をかちとること」が可能であるかのように主張するところに欺瞞があるのです。

他方、日本共産党の志位が日雇い派遣労働者の問題を取り上げて『活躍』する様子がネットで流れています。共産党が梃入れして組織された合同労組も存在し、それなりの集会をやって青年労働者を組織しています。しかし共産党の非正規雇用労働者に対する方針は

「(1)当面するわが国の社会変革の方向は直接的な社会主義的変革ではなくて資本主義の枠内での平和・独立・民主主義を目指す民主的変革であることです。(2)今日の賃金要求は労働者の生活防衛にとどまらずGDPの6割弱を占める国内最終消費力の引き上げによって『格差景気』を是正し、日本経済を民主的に発展させるための原動力となるものです。」
という立場から最低賃金制の引き上げ、全国一律最低賃金制の確立が緊急の課題だとするものです。最低賃金制の引き上げによって今日の非正規雇用の青年労働者の問題が解決するでしょうか。絶対にできません。生きさせろという青年の要求に真にこたえる道ではないのです。体制変革・革命以外に解決の道はありません。共産党が組織する合同労組は青年労働者を体制内に封じ込め、彼らの要求や訴えを踏みにじることにしかならないわけです。「労働者をもっと絶望の底に突き落とすような労働組合」が共産党系の労働組合なのです。

合同労組や未組織労働者の組織化が四大産別の労働運動と別のところで語られたり、対立させられたり、四大産別の労働運動に対するアンチとして語られるようなあり方-大庭のような合同労組思考との対決が必要です。我々が四大産別決戦を基軸にするのは四大産別攻防が最大の階級決戦だからです。労働組合の存亡がかかった決戦が四大産別攻防なのです。大庭パンフの合同労組論は合同労組の体制内労働運動論です。

個人加盟制―企業の外にある合同労組。だから階級的合同労組ということにはなりません。組織形態から革命的になるわけではないのです。問題はやはり路線。何を目指す労働運動なのかか問われるわけです。  2007年11・4で打ち出された共同センター構想。この具体的推進軸に合同労組がなりうるわけです。労働組合はどんな課題でも引き受けられるます。最後的にはソビエトの一員として武装蜂起の一翼も担う組織です。障害者解放・部落解放・女性解放。在日人民との連帯・共同行動を含めてありとあらゆる課題を担う地区のセンター的役割を果たすことができます。

しかし、最大の課題核心は拠点労組の建設です。軸になる拠点労組と専従オルグ最低1名は不可欠です。これ抜きに合同労組は成立しません。職場に基礎を持たない未組織労働者が一人二人と寄せ集まった合同労組は運動になり得ません。それら一人二人が自らの職場で分会を組織するあり方を目指すことです。自らがオルグになり、職場の仲間を組織して分会をつくる経験を通して労働組合の組織化を実践的に学ぶこと。その場合の基本は動労千葉の労働運動です。俺鉄2、3『新版 蘇る労働組合』の学習が必要です。動労千葉の労働学校で新しい組合員を学ばせることが合同労組建設にとって必要不可欠です。大庭パンフの本質は動労千葉労働運動に対抗するための「非正規雇用」の強調であり、合同労組です。これが最大の誤りです。我々は合同労組にあって動労千葉労働運動を実践するのです。

四大産別決戦とは、改憲決戦―革命の現実性をたぐりよせる闘いです。四大産別は帝国主義の延命をかけた攻撃が白熱的に集中している産別です。ひと言でいってその攻撃は、民営化、「日の丸・君が代」への忠誠の強制、道州制導入など、全面的な国家改造と、改憲・戦争に向けた労働者階級の団結破壊、階級的なものを一掃する攻撃であるということができます。攻撃は極めて階級的です。

労働組合運動を革命運動の内部にどのように位置付けるのかという視点から常に問題を立てなければなりません。その場合、四大産別の闘いが基軸になるのです。ここから問題を立てないと合同・一般労組の運動も位置づきません。問題は、いかなる潮流がいかなる路線をもって、組織労働者の闘いと未組織労働者の組織化の事業を統一的に指導するかにかかっているのです。
労働者階級の本質的な革命性をとことん信頼し、そこに一切を依拠して革命をやりぬく路線。労働者階級自己解放の思想としてのマルクス主義の完全な復権。その核心は、絶対反対論と階級的団結論の確立と、その実践にあります。

第一に、労働者は資本と絶対非和解であり、労働者階級は救済の対象ではなく、この資本主義社会を転覆する革命の主体である。このことを徹底的に明確にして闘うこと。
第二に、あらゆる分断支配を打ち破り、労働者が団結を拡大し、自己を階級として組織すること、この中に一切がある。団結とその拡大にすべてをかけきって闘うこと。

第三に、一切の体制内的な思想と運動の壁を根底から突き破って闘うこと。

第四に、団結した労働者が革命的行動にうって出ること、体制内政党に代わる本物の労働者階級の党をつくりだし、労働組合を革命への団結体に変え、闘いの中で階級の指導部へと自己を形成すること、そして職場支配権を資本の手から奪い取り、自らの職場と地域を革命の拠点に変えて闘うこと。

合同・一般労組の運動もこの道に向かっての団結を組織するために闘うということです。

しかし我々の組織はまだはじまったばかりで組織力や経験は体制内労働運動以前的なものです。最初に述べたように革命を目指す合同・一般労組運動を我々がこれから新たに作り出していかなければなりません。青年労働者の派遣労働、ワーキングプア化はこれまでにない資本主義の最末期の極限的な搾取のあり方です。我々も経験していない新たな領域です。そういう意味では今までの組織化では対応できない側面があります。新しいあり方、新しい組織を新たに作り出していく必要があります。繰り返しになりますが森精機のストライキ、岡山・広島のゆうメイト、埼玉の仲間の決起は偉大です。埼玉のゆうメイトの雇い止め解雇撤回は緒戦の勝利です。20万のゆうメイトの組織化を我々の合同・一般労組がやりましょう。郵政分割・民営化を大破産に陥れる環をなす闘いになります。JP労組本隊の決起と結合した闘いをやりぬきましょう。

結語

まとめとして私の職場の組織化の話をします。私が職場に入って1年半して分会権力を握り、数年後組合が解体されてそれから5年後東部ユニオンOSS分会として組合を再生するまでの話です。組合の権力をとるとか組合をつくることと全く関係のないような話から入りますが実は結構重要な環になる話ですの聞いてください。

私は先に述べたように9年半獄中いました。1986年1月22日に事後弾圧で逮捕され、1995年7月12日に出獄します。30歳で中に入り40歳になって出てきました。1年リハビリ期間ということで獄中ノートを整理して『スターリン主義と農業の強制集団化』という題のノートをまとめたりしながら娑婆の生活に慣れてきた96年の2月に今の職場に職安を通して入りました。9年半のブランクについては自宅で書き物の仕事をするなどしていたとごまかしました。その時は刑務所が自宅ですから嘘偽りを履歴書に書いたわけではありません。

こういうのは履歴詐称にはならないとのことです。刑務所にいたことを正直に書いてとってくれるところはないのでこういう類のごまかしは大丈夫のようです。今は王子板紙株式会社内の王子斎藤紙業ですが、当時は本州製紙江戸川工場内にあった協力会社のひとつである丸彦渡辺建設東京営業所に就職したのです。本州製紙はその2年後に王子製紙に吸収合併されて、その後王子板紙江戸川工場となり現在に至ります。まだバブルが崩壊していない時なので募集は沢山ありました。職安で50歳以上の人でも募集していて労働組合がある職場を選びました。私は40だったのでそこではまだ若い部類だったのです。丸彦労組は連合結成までは江戸川区労協に加盟していました。私が新聞配達をしていた毎日新聞篠崎販売店は本州製紙の裏にあって、社宅に配達もしていたので土地感もありそこを訪ねたら明日から来てくれということになり就職は一発で決まりました。

一週間アルバイトで3月1日から正社員でした。丸彦労組は紙パ労連以来40数年の歴史があり、北海道に3支部、東京に1支部200名位の組織の組合です。江戸川支部は30名位でした。紙パも合同労組で、個人加盟制です。半年は組合員になれない労働協約がありました。大きな転機は私が1年勤めた97年春に天皇が江戸川工場を見学しに来ることになることからはじまります。工場の中に通産省の役人などが50名単位でぞろぞろ現れるようになり、パートの女性労働者が「宮様がくるんだって」と噂をしていました。私は礼宮とか秋篠宮あたりが来るのかなと思い、何かあるかなと思っていたら所長に呼び出されて「会社の命運がかかったプロジェクトがある。君にそれをやってもらいたい。奥さんにも会社の同僚にも内緒にして明後日から本州製紙富士工場に研修に行ってもらえないか」というのです。宮様は実は天皇のことで天皇が来る間の2週間私を富士工場へ追い払う作戦だったのです。本州製紙の富士工場と丸彦渡辺建設が会社ぐるみで行う大掛かりの猿芝居です。

私としてはやっと仕事に慣れてきたばかりのころで、まだ誰も組織するようなこともしていなかったこともありその話に乗りました。狐と狸の化かしあいのようなものです。私の監視役として小林という職場のボスも同行しました。彼はちょうど秋田の母親が死んで葬儀を済ませたばかりでした。葬儀の席に副所長が来て、その場で明後日から富士工場へ行ってくれというわけです。母親の葬儀が終わったばかりなのに一体なんだと彼は思ったそうです。ともかく副所長と小林と私の3人で富士工場に出かけて行って、そこで初めて仕事の中身が告げられます。「会社として新しい分野の仕事を開拓しないと今後立ち行かない。そのために硫酸バンドと水ガラスの製法をマスターしてもらいたい」というのです。硫酸バンドというのは硫酸アルミニウムのことで汚水処理などに使う薬品です。水ガラスも同様です。2週間で覚えられる仕事ではありませんが、とにかくそういう話です。

小林と私は食事つきの会社が借りた旅館に宿泊して2週間そこで仕事を覚えます。そこで私は勝負をかけたわけです。小林に浅草橋の話から、9年半の話、天皇が来ること、そのために私を隔離して小林を監視役にしたことなど全部話したのです。小林は「千葉動労か」とつぶやいたのです。「何で小林さんが動労千葉のことを知っているの」と聞くと「俺だってそのくらいのことは知ってるよ」ということになりそこから話は簡単になるわけです。錦糸町に場外馬券を買いに行ったとき動労千葉のストの話が駅で流されていて小林がそれを聞いたことがあるというレベルのことだと思います。彼はその話の最後に「うーん。何故天皇様が来るのに俺が会社にいないで、ここに来たかやっとわかった。お前のことは俺の手には負えない大きすぎる話だな。お前がまた何かあって突然いなくなったらみんなにはあいつはこういうやつだったということを話しておいてやるからな」といいました。これを聞いて私はオルグできたと思いました。だからこれ以上そういう話はもう二度としませんでした。

その必要も無かったし、小林にはそこまで理解してもらえば良かったからです。我々が富士にいる間に天皇と美智子が来て、整列した一人の労働者の前で立ち止まって「勤続何年ですか」と聞くわけです。直立不動の姿勢で「勤続36年です」と答えたのが紙パ連合丸彦労組江戸川支部の当時の支部長です。翌年青島東京都知事が来るわけですが、彼はサーッと通り過ぎただけなので、天皇より評判が悪かったです。「やっぱり意地悪ばあさんだな」と。私と小林は富士から帰る前日に丸彦の富士工場の所長の招待で料亭と「赤と黒」という名前のクラブに案内されるなどして、そこでも狐と狸の化かしあいをやって帰ってきました。私は最後に向こうが本当の話をしてくるかなと探りも入れましたが、会社側は最後まで猿芝居を貫徹していました。

重要な話はここからです。その直後の支部大会の直前に小林が「お前組合の役員になれ。役は何でもいいからとにかく執行部に入れ。俺が全面的にバックアップする。資材職場でみんながお前を応援するようにするから」と言ってきたのです。渡りに船なので同意してこの際だから「書記長をやりましょうか」と言ってすんなり書記長になりました。この後の詳細は省略しますが、支部決定で11月集会の動員を勝ち取るような支部に変革します。11月集会に動員費を出させて5名動員するようなことを2年続けました。そのこととどのくらい関係があるかわかりませんが、次の年に丸彦渡辺建設江戸川工場の30人に3分割・業務移管の攻撃がかけられるのです。支部の解体攻撃でもありました。資材担当が王子斉藤紙業へ。仕込みは王子紙業へ。土建・鉄工職場は丸彦にそのまま残るという攻撃です。

首切りとか賃下げとかもなく、業務もそのままで会社が変わるという攻撃です。ここではどうするかは悩みましたが、一旦引いて王子斉藤紙業で組合を再建するまで耐えるという決断をしました。組合が一旦つぶされたら再建するには相当の日時がかかることはわかっていましたがそういう決断をしました。非公然で私を含めて4人を労組交流センターの会員としてつくりそれを核にして再起をかけたわけです。しかしそれらの人は定年退職していきます。結局、東部ユニオンOSS分会を立ち上げるまでに5年かかったわけです。

丸彦に入って書記長職をとる過程も、OSS分会を立ち上げるときも同じですが、職場で労働者を組織する場合の還は「仕事ぶり」です。職場の労働者は「仕事ぶり」を見てその人間を判断します。仕事を早く覚えて、精通しないことにはオルグはできません。そうでなければ「能書きばかり言って何事だ」と一喝で終わりです。労働者は口先オルグでは獲得できません。何を言うかでなく、何をやるかでみています。職場支配権を握る場合も仕事上でリーダーシップをとれないと無理です。

あとは資本にこびた仕事をする輩や「ずるい」のもだめです。火中の栗を拾うくらいの気持ちで他の人が苦戦しているときに応援したり、困難な仕事を自ら進んでやったりしていく中で職場労働者の信頼が生まれてきます。東部ユニオンの中でもそういう私に対して「仕事をやりすぎ」という批判がありますが、今組織している組合員の中では私の「仕事ぶり」で獲得している人もいます。これは一生懸命に仕事をするとかというのとは違うのです。私は会議やいろいろな集会がありますからほとんど定時で帰ります。8時~16時が通常の作業時間です。会議や動員に間に合えば残業もやりますがそれは全部自分の判断で決めます。決められるポジションにいるということもありますが。あと職場では私の経歴や思想性を包み隠さず話しているということです。その場合重要なのは人間の見極めです。相手がどういう人間か、どういう話をすれば一番通用するか。どういう接し方をするのが一番良いかの見極めをすることです。浅草橋の話をして最初から引いてしまう人にそういう話をしてはダメです。そういう話が通用すると思うから話をするわけです。

その見極めは私も「仕事ぶり」で判断します。先ほど述べた裏返しです。OSS分会のうちの私以外でもそのうちの3人は前科者です。私が浅草橋の話をしたら「ご苦労様でした」と涙を流した人もいて、自分の前歴を話してくれたわけです。
いずれにしても合同労組であれどんな組合であれ、動労千葉のような労働組合をつくるか、そういう団結体をいかに組織するかが核心です。あれやこれやのいろいろな労働組合から学ぶのではなく、動労千葉の階級的労働運動を学ぶということです。私の職場はいつ死亡事故がおきても不思議ではない作業環境にあります。その意味でも動労千葉の安全運転保安闘争の闘い方、ものの考え方はストレートに私の職場で適用できます。私の今日の話は未組織労働者を外からオルグして組織する内容も含まれていました。

こういう組織化の話は古くて新しい話ではあります。労働組合を組織して団結体をつくる方法は古今東西同じようなものです。先に出てきた小幡さんなどは優れたオルグです。労働組合をつくったり、争議の指導なども彼の方が優れているかもしれません。しかしその労働者をどのような路線で組織して、どういう団結体を目指すのかが問題なのです。階級的労働運動と体制内労働運動との違いはそこにあります。そうでないとただの形態論や技術論みたくなってしまいます。そういう風受け取られては困ります。だから結論は『蘇る労働組合』(中野洋著)から学びつくすということで、合同・一般労組にあっても、どこの労働組合においても同じです。

既成の労働組合の労働組合論と未組織や合同・一般労組の運動論が違うという風に問題を立てること事は間違いだということです。以上で終わります。